忍者ブログ
Serena*Mのあたまのなかみ。
大正書生シリーズで勝手にお題に参加するの巻。





その街、銀座は日本中の全てが揃うと言われていた。
南蛮の舶来品から華族御用達の簪まで、この世のもので扱わない品は無いと誰もが口を揃える。
其の銀座の街で流行しているのがカッフェなるもので、聞くところによると『珈琲』なる真っ黒な飲み物を頼むのが若者たちの間で熱を帯びているらしい。

読みかけの文芸雑誌を閉じて、相変わらず出窓の向こうの千切れ雲をぼんやりと見遣りながら星野が呟いた。

「時に、月本よ。
 たまには銀ブラと洒落込もうじゃないか」

分厚いドイツ語の辞典に首っ引きになりながら、化学の論文を丁寧に翻訳していた月本が薄く顔を上げる。眼鏡の奥の黒い瞳が怪訝そうに揺れた。

「銀ブラ?」

何時もは本の虫の星野だが何故か矢鱈と人の噂話には早く、そして其れに乗るのも上手かった。

「まぁいい。
 ちょうど腹も空いたし、ちょっと出かけよう」

つっと着物の袂を引っ張ってふわりと星野が立ち上がる。
拍子にほつれた袴が見えたから、今度繕っておこうと月本は頭の片隅に書置きを残した。

「あぁ、少し待て」

月本は言うと翻訳ノートを丁寧に辞書と揃えて、学生帽を星野に手渡す。

着物の袷に着古したYシャツ。茶にも見える袴はその昔は濃いあずき色だった筈だ。
見慣れた星野の格好ではあったが、銀座の街にはやや不恰好な気がして肩を叩いてみるものの、其れに気付いた星野はそのままで良いと首を振った。

「月本、君はその青が良く似合うな」

群青色の、設えたばかりの月本の袴を褒めたので、格好についての話題はそれきりになって、そうしてやっと部屋を後にした。







珈琲、なるものは星野にも月本にも旨さと云うものがが微塵も感じられず、かと言って別の炭酸水を頼むのもどうも癪に障ったので無言で胃に流し込む。
店子がそれを可笑しそうに見てはいたが、今の二人に其れを気にする余裕もなく、唯、早く別の場所に行きたい、其れだけであった。

帰り道、行き着けの甘味処でシベリアを買い、その日の簡単な夕食とする。
甘味が好きな星野に多めに餡を渡してやると、美味しそうに頬張るのでつい残りも全て渡しそうになるが、ちょうどよく胃がきゅうっと鳴ったので半分だけやるに押し止まった。人間の身体とは正直なものだ。ちびりちびりとカステラを齧りながら月本はぼんやりと思った。

簡単な食事であったので、ちゃぶ台を拭くだけで片付けは終わり、薄い布団を並べて敷く。
月本は先刻まで取り掛かっていた論文の先を読もうと、分厚い辞典とわら半紙を出窓へと並べ、ランプの灯火を出来るだけ小さく保つ。月明かりもあって、ほんの小さな灯火でも十分に文字は読めそうな明るさであった。そんな彼に星野は布団の中から声を掛ける。

「…寝ないのか」

「もう少しだけ、読みたくて」

「そんなの、明日したって変わらないだろう?」

掛け布団をすいっと空けて星野が悪戯に誘う。
寝巻きにしている浴衣から、星野の薄い胸板が見えて少しだけ月本は咽せた。

「おい、大丈夫か?
 調子が悪いなら、尚更寝たら良い」

真剣な眼差しで星野が言うから月本は無碍にも出来ず、ランプの光量を落とすと彼の隣に滑り込んだ。
柱に掛けたボンボン時計は10の針の少し手前。いつも寝る時間に限りなく近い。
片腕に星野の体温を感じながら、おやすみと月本は瞳を閉じた。







――今日に限って、一体何があったのか。
いくら寝返りを打てど、全く睡魔なるものは月本を支配する気配が無い。隣ではくぅくぅと星野が気持ち良さそうな寝息をたてている。
今宵、何度目かの溜息を噛み殺して月本は傍らの星野を見遣る。
暗がりにも分かる長い睫、さくら色の唇、規則正しく上下する胸元は少しだけ肌蹴て月本を誘惑する。

急に自分の体温が上がった気がして、月本は強く目を瞑ると必死で先刻の論文を思い浮かべながら夜明けを待った。


窓の外が薄い群青に染まった頃、漸く月本の意識は日本のこの狭い布団の中から、遠く独逸の見知らぬ研究所に離れていった。







「酷い顔だな」

共同の井戸で顔を洗ってきた星野が、朝餉の支度をする月本を笑う。
普段から青白い顔をしていた月本だが、今日は輪をかけて青白く、目の下には真っ黒な隈さえ浮かんでいる。

「…眠れなかったんだ」

冷えた握り飯を渡すと、星野が意味深長に呟く。

「…あぁ、そう言えば昨日は運動しなかったものな」

きゅっと真一文字に月本の口が結ばれたのを見て、また星野が笑う。

「冗談だよ、月本」



珈琲にカフェイン、安眠妨害の作用があると知れるのはまだまだ先の話――



拍手

PR
 HOME | 96  95  94  93  92  90  91  89  88  87  86 
Admin / Write
What's NEW
PASSについては『はじめに』をご覧ください。
2025.07.09
 えすこーと UP
2025.06.27
 しかえし UP
2025.06.26
 ろてんぶろ UP
2025.06.23
 しーつ UP
2025.06.20
 ねっちゅうしょう UP
2025.06.17
 あくじき UP
2025.06.15
 しゃしん UP
2025.06.14
 ヒーロー情景者がヒーローの卵を手伝う話
 大人になったヒーロー情景者が現役ヒーローを手伝う話 UP
2025.06.12
 ていれ② UP
2025.06.10
 せきにん UP
2025.06.09
 よっぱらい UP
2025.05.28
 まんぞく UP
2025.05.27
 きすあんどくらい UP
2025.05.26
 もーにんぐるーてぃん UP
2025.05.23
 みせたくない UP
2025.05.21
 あい UP
2025.05.15
 サイズ UP
2025.05.13
 すいぞくかん UP
2025.05.12
 intentional gentleman UP
2025.05.09
 てんしのあかし
 considerate gentleman UP
2025.05.06
 新米ヒーローと仕事の話
 そんな男は止めておけ! UP
2025.04.27
 なつのあそび UP
2025.04.19
 はちみつ UP
2025.04.18
 ようつう UP
2025.04.16
 しつけ UP
2025.04.10
 へいねつ
 鮫イタSSまとめ UP
2025.04.08
 ヒーロー2人と買い物の話
 かいもの UP
2025.04.05
 こんいんかんけい UP
2025.04.04
 角飛SSまとめ⑦ UP
2025.04.03
 ゆうれい UP
2025.04.02
 汝 我らに安寧を与えん UP
2025.03.31
 どりょく UP
2025.03.29
 とれーにんぐ UP
2025.03.28
 しらこ UP
2025.03.26
 ティム・ドレイクの幸せで不幸せな1日
 あいのけもの 陸 UP
2025.03.25
 さんぱつ UP
2025.03.23
 けんこうきぐ UP
2025.03.21
 へんか UP
2025.03.20
 はな UP
2025.03.18
 こえ UP
2025.03.17
 こくはく UP
2025.03.15
 ぎもん UP
2025.03.14
 あめ UP
2025.03.12
 よだつか/オメガバ UP
2025.03.10
 あこがれ UP
2025.03.08
 おていれ UP
2025.03.07
 くちづけ UP
2025.03.06
 どきどき UP
2025.03.04
 たいかん② UP
2025.03.03
 たいかん UP
2025.03.01
 かおり UP
2025.02.28
 なまえ UP
2025.02.27
 さいふ UP
2025.02.26
 しらない UP
2025.02.24
 くちうつし UP
2025.02.21
 うそ UP
2025.02.20
 たばこ UP
2025.02.19
 よだつか R18習作 UP
2025.02.17
 きのこ UP
2025.02.15
 汝 指のわざなる天を見よ UP
2025.02.04
 角飛 24の日まとめ UP
since…2013.02.02
忍者ブログ [PR]