Serena*Mのあたまのなかみ。
大正シリーズの星野と月本の出会い偏。
星野との出会いはいつであったか。
書き付けのわら半紙に雑多な化学式を滑らせながら月本はふと思案に浸る。
あれは、まだ学校に入って半年も経たない頃だろうか。
慣れない講義にやっと慣れ、もうすぐ夏の休暇だななんて話していた時期だったように思う。
窓側の席で昨日借りてきた文芸誌を広げた月本に、同じ組の友人が声を掛ける。
分厚い瓶底眼鏡の彼は、月本と同じ郷里に住む知り合いであり、一緒にこの学校に入学した同僚でもあった。月本の下宿先も見つけてくれたのも彼で、彼の下宿先と月本とは歩いて行き来できる距離だった。
彼の名は佐久間と言う。
「月本、昼過ぎから向こうの川で水泳をしようと云う話になったのだが、お前は来るか」
今日の午後の講義は教授の都合で事前に休みが宣告されており、めいめい自習をするか遊びに行ってしまうかの二択であった。
「…荷物番が欲しいんだろう」
月本は雑誌を丁寧に鞄の中へと仕舞う。
「分かってるじゃないか」
佐久間は悪戯っぽく笑うと、半刻後に校門前だと言い残して教室を後にした。きっと食堂に行くのか、それか急いで支度をするのであろう。
月本と云えばすっかり今日の午後の授業が休みであることを失念していたので、懐に忍ばせた握り飯を静かに頬張ることとした。
水泳の準備等必要無い。どうせ、自分は荷物番なのだ。借りた本でも読みながらのんびり待とう。
中に入った梅干の酸っぱさに、彼は眉をしかめた。
*
川では、佐久間を含めた教室の仲間が4,5人あっちへ泳いでみたり、こっちへ水しぶきを寄越してみたりと忙しく遊んでいた。
河川敷に脱ぎ捨てられた着物をまとめながら、それを座布団代わりにごつごつした河原へと座り込む。
日差しは春に比べて随分強かったが、水辺であったので風は心地よく、月本は持ってきた鞄から読みかけの文芸誌を広げる。短歌、俳句、そのような文芸に興味の無い月本であったが、彼の母がそう云ったものを好む人で恋慕の歌を作っては雑誌に投稿を繰り返していた。その本も、彼女が作った短歌が一篇載ったのだと云う。
わざわざ電報を打ってまで知らせてきたので、読んでやらねばと下宿先の女将に頼み、彼女の知り合いから借りたのだった。佐久間には買えば良いものをと云われたのだが、興味の無いものに払う金は生憎月本に持ち合わせていなかったので借りた次第である。
頁を捲ると、さっきまで明るかった世界が一変して暗くなる。驚いて雑誌に合わせていた焦点を少しだけ広げてやるとそれは人の形の影で、どうやら自分は覗き込まれているようだった。
気付いたときに、声が降ってくる。
「…それは、アララギか?」
月本は表紙を広げて答える。
「…好きなのか」
「知り合いがこの本に載ったと教えて呉れてね。普段は読まないから四苦八苦していたところだ」
上から降る声は、妙に月本を安心させたので普段無口だと云われる彼が饒舌になっていた。
「…隣、いいか」
声の主は短く尋ねる。
月本から逆光になっていたので、彼は声の主の顔をよく見えなかった。分かるのは自分と同じように着物と袴の、学生だと云うことくらいだ。
そうして、少しだけ横に動くと声の主は隣へと腰を下ろす。
「…君は泳がないのか?」
月本の隣にうず高く積まれた鞄を見て、それから川べりに目を遣ってから彼は云う。
「好きじゃないんだ。子供の頃に溺れたことがあってね。
だからこうして体の良い荷物番さ」
そこまで云って、月本はその人に尋ねる。
「ところで、君は」
「…あぁ、俺も誘われたんだ。けれど、生憎泳ぐ気がしなくてね。
でもやっぱり友人は大切にしたいし付いてきただけだ。
君が居てくれて良かったよ」
その人は小さく笑うと、ざんぎり頭が揺れた。
誘われて、と言うことはきっと同じ学校なのだろう。自分より随分小さな肩幅に幼さを覚える。よく見れば、着物も借り物のようでその人にしては随分大きめに見えた。
「…失礼だけど、名前を訊いても良いかな。
まだ、教室の人も覚えられてなくて」
月本が言う。その人は頷いてから手を差し出した。
「俺は星野、星野裕。文学部に所属している。
是れも何かの縁だ。よろしく頼むよ。えっと…」
「僕は月本誠だ。こちらこそよろしく」
差し出された手を握り返す。
其れが、月本と星野の出会いだった。
――そうだったなぁ、と計算の合わなくなった化学式に二重線を引きながら月本が一人ごちる。
其の後、川遊びが終わった佐久間から簡単に星野を紹介され、それから学校でもよく星野とすれ違うようになった。
自然と会話も増え、一緒に昼食を摂ることが多くなり、気付けば家に星野が遊びに来るようになった。
六畳一間の狭い下宿先ではあったけれど、出窓が彼のお気に入りらしくよく其処で本を読んでいる。彼が活字に向ける真剣な眼差しを見るのが月本は好きだったから、其れを止めることはせず、そうしていたらある日小さな風呂敷包みを一つだけ持った星野がやってきた。
「部屋を、引き払ってきたんだ」
彼の下宿先は此処から半刻程離れた先で、学校に通うのも大変だったしここ1ヶ月はまともに帰ってない状態だったから、新しい下宿先が見つかるまで住まわせて欲しいと。
それに対して厭だなんて云えないから、そっぽを向いて月本は答えたのだった。
「…別にずっと住んでたって構わないよ。僕も研究で居ないことが多いから」
事実、研究が忙しくて1週間に1度帰るのが精一杯な時期だった。埃っぽい部屋になってしまったが、星野が居ればきっと人の部屋らしくなるだろう。
そうして、星野と月本は一緒に住み始めたのだった。
其れが、一年の終わり。
「…楽しかったなぁ、星野」
月本が一人呟き、鍵の付いた日記帳にさらさらと何かを書き込んでいる。
其れは、星野との思い出なのか、月本の戯言なのか、誰にも分からない。
現在の月本の日課は、寝る前に日記帳を付けることで其れは文芸部の星野の影響だと思うとなんだか歯がゆくもあり、懐かしい気持ちになった。
簡素な作りの鍵を回すと、日記帳は机の上の本棚に、鍵は一番上の引き出しに仕舞う。ランプの炎を吹き消すと、急に夜の静寂が月本を襲った。
「…おやすみ」
月本は言うと、静かに布団へと身を預ける。
縁側の外には三日月が儚げに浮かび、チカチカと星が瞬いていた。
了
アララギ(文芸雑誌)…短歌結社誌。1908年(明治41年)に伊藤左千夫を中心に『阿羅々木』として創刊。翌年『アララギ』と改題され、正岡子規門下の歌人らが集まった根岸短歌会の機関誌となった。(出典:wikipediaより)
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