Millefeuille Lovers

TENET/主ニル

友達の誕生日に捧げた一篇です。

少し気分転換しようと男がシャワーから上がった時、軽快に響くスマートフォンのバイブレーションに慌てて通話ボタンを押す。
通話相手をよく確認しないで画面に指を滑らせたが、彼の私用の番号を知る人は少ない。しかもこんな夜中近くの時間だ、声を聞かなくたって相手は分かる。――ニールだ。

『ハァイ、ボス。
　仕事の邪魔だった？』

あまり電話の類を待たせない男だったから、暫くコール音を聴いていたニールはそう心配する。男はハンズフリーの表示を叩くと、急いで巻いたバスローブをゆっくりと巻き直した。

「…いや、大丈夫。
　ちょっとシャワーを浴びていただけだ」

男の言葉にニールの声が弾む。

『やだ～セクシーなボスが此処に居るってこと？
　照れちゃう』

わざとらしい恋人の言葉に硬い表情だった男の口角が緩む。
男は目を細めるとサイドテーブルに置いたスマートフォンを持ち上げて、ゆっくりと語り掛けた。

「どうした、こんな夜更けに。
　酔っぱらってるワケでもないだろう？」

ニールの声は明瞭だ。
背後にアイヴスと行くようなパブの喧騒もない。

『あはは、やっぱり貴方はいつでも鋭いね』

男が浴室から一間続きの寝室を抜け、居間に来ると仕事を片付ける大きなデスクにスマートフォンを置く。座り心地の良い少し特殊な形をした椅子に座ると、流れるような仕草で落としていたパソコンを立ち上げた。

「普通だよ、普通。
　君が連絡を寄越すなんて珍しいなと思ってね」

男は少し前まで目を通していたデータをもう一度モニターに映し出す。
仕事モードの強張った声に、恋人に聡いニールはいち早く気が付いた。

『……あ、あのさ。
　仕事の邪魔かもしれないんだけど…ほんの少しで良いんだ。2人で話せない？』

恋人につられたのだろうか、少し声のトーンを落としたニールに男は眉を寄せる。

「…大事な話か？」

――今日は週末、休みの前の日。
休暇は一緒に過ごす事の多い男とニールだったが、明日から諜報活動で本部を離れる男は珍しく恋人と別の時間を過ごしていたのだった。
生真面目な彼だからこそ、仕事の下準備は入念に行う。どんなトラブルにも対処できるようにあらゆる事態を想定したプランを練っていたし、潜入する町の街並み、新しく出来た話題の店から古くからの老舗の店名まで雑多な知識を頭に叩き込んでいた。
ターゲットと趣味を合わせるのは容易い。一瞬の情報の為に、偽の人生を作り上げ、その街の住人のように振る舞うのを男は得意としていた。

『…うーん、それほど、ってワケでもないけど。
　ただちょっと、お話したいかなって』

男の言葉にニールの歯切れは悪い。
２人っきりの時は時々男を困らせることのあるニールだったから、今だってその延長線なのだろう。男は溜め息を吐くと「切るぞ」言い放った。

『あぁぁぁぁ、待って待って待って』

冷徹な恋人の言葉に、電話口のニールが慌てる。
男はモニターを凝視しながら続けた。

「…明日も早いんだ、雑談に付き合う義理は無い」
『そんなぁ～』
「切るぞ」

もう一度呟いた男に、ニールの焦る声がスピーカーから響く。

『あと1分！いや、30秒！！』
「…君はそんなに長電話が好きだったか？」
『貴方と話すのは好きだけど…って違う違う』
「よし、30秒経った。おやすみ、ニール」
『待って待って！体感30秒早くない！？僕の体内時計はまだ10秒くらいだよ！！』
「…君の体感時計ほどアテにならないものはないな？
　ほら、そんなこと言っているうちに本当に30秒だ。
　いい加減にしないと私だって怒るよ」

低さの増した男の声に、もう何度目かの“待った”の声が重なる。

「ニール」

男の呆れ声に、ニールはやっと“待った”以外の言葉を発した。

『Happy Birthday！（お誕生日おめでとう！）』

彼の言葉にモニターを凝視する男の動きが止まる。一瞬、何が起ったのか分からなかったようで小さく首を傾げると真っ黒なスマートフォンへ視線を移した。

「…誕生日…？」
『Happy Birthday、ボス。
　今日は貴方の誕生日でしょう？』

恋人の言葉に男はパソコンのカレンダーを表示させる。映し出された日付はまさしく彼がこの世に生まれた日で、12時をほんの少し過ぎた時刻を表示していた。

『…一番に貴方に言いたくてさ』

スピーカーから聞こえる声は朗らかで、苛立った対応をしてしまった男は恋人に申し訳なさを感じる。
明日から任務だと告げた時の困ったような微笑み、「ちょっとランチどう？」誘いを断った休憩時間、片付けたい仕事があるからと恋人を見送った背中――
最近の恋人の行動全て合点がいって男は頭を抱えた。

「……ニール、………済まなかった…」

暗く沈んだ男の声にあっけらかんとニールは返す。

『どうして謝るのさ？
　今日は貴方の誕生日だよ、そこは“ありがとう”って言わなきゃ』

電話口から見える、大輪の向日葵のような恋人の笑顔に男は独り頭を下げた。

「…ありがとう」

――どうも、男は自分の誕生日に無頓着のようで。
誰かの誕生日を祝う準備を何度も経験していたのに、自分の事となるとすっかりとその日付が抜け落ちてしまったようだ。

『折角の貴方の記念日だしさ。
　こうして伝えたかったんだ』

不甲斐無さに呆けてしまった男に、ニールはやっぱり明るい声で告げる。

『ごめんね、仕事前の忙しい時に。
　それじゃ、おやす――』

電話を切ろうとした恋人に、男はやっとのことで声を絞り出した。

「私も」
『…？』
「私も、君の記念日は大切にしたい」

――彼が生まれた日。
恋人が男を想うように、男だってその日は大切にしたかった。
男からの告白にニールの笑い声が耳に届く。

『今年も、来年も、その次の年も。
　ずっとずっとお祝いして貰えると嬉しいな！』
「……約束しよう、君の誕生日も、自分の誕生日も、もう、忘れないと」
『来年は大きく書いておこうよ。その日は僕の予約で埋めておいてね』
「…気が早いな。なら、君の誕生日も私が予約しておこう」
『ふふっ、嬉しいな』

喜びを素直に表すニールに、男も自然と目尻が下がる。

『それじゃぁ、今度こそ。おやすみなさい』
「おやすみ、ニール。良い夢を」

通話が途切れたところで、男は大きく息を吐いた。
そうだ、すっかりと“架空の誰か”を作ることに忙しくて自分の誕生日のことなんて忘れていた。

――男とニールは、まだ付き合って日が浅い。

こうして恋人と時間を重ねて、少しずつ思い出が増えていくと良いなと男の心に温かい物が広がったのだった。

＊おしまい＊