Serena*Mのあたまのなかみ。
邪視(邪眼)を持つディックの話。
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chapter:Ⅲ. Days
――もう、世話係と世間話をする関係は築かないと誓ったのに。
大広間から、自室へ戻るとのソファに置いた大きなクッションに頭を挟んで僕は自問自答する。
どうして急に『世話係だ』なんて紹介した?
しかも、フルネームを名乗らせて。
僕の世界は義父のブルースと、アルフレッドの2人だけで充分なはずなのに。
柔らかに音の遮断された世界に響くのは、僕の心臓の音だけで。
その音も随分と早く聞こえたから神経が昂っているのを自分でも諒解した。
少し、落ち着いて水でも飲もう。
お昼はそのまま大広間でブルースとトッドの2人での食事だったけれど、正直な話、何を食べたのか覚えていない。
トッドもこの屋敷内で生活していること、これからは彼が僕の面倒を見ること――覚えているのはそれだけだった。
『アルフレッドとはもう会えない?』
尋ねた僕にアルフレッドは優しく答える。
『大丈夫ですよ、リチャード様。
屋敷でのお世話は今まで通り私が、出かけた際はトッドがお世話するだけです。
……今までと何も変わりはありません』
廊下を押されながら交わした話に安堵したのが、唯一覚えていることだ。
――また、長く屋敷を空けるのかなぁ。
読みかけの小説の続きが読めなくなるのが、少し寂しかった。
*
僕とトッドが“仕事”で顔を合わせたのは、出会いから半月もしない頃だった。
「…ごめんね、重くない?」
成人男性である僕を抱きかかえるトッドに申し訳なくなって僕は縮こまる。
もうすっかり足の筋肉は衰えてしまったけれど、上半身は車椅子を扱うから今までよりも筋肉質になっていたし、体重なんて気にしてはいなかったけど――やっぱり子供のように抱かれるのは恥ずかしかった。
密着した鼻に彼の体臭が届く。コロンの類は使わないのか、土臭い雄の匂いに屋敷で使う石鹸の匂いがした。
「…別に」
これも仕事の内だ、言わんとばかりにトッドの反応は薄い。
「ありがとう」
僕は呟くとそのまま彼が抱えやすいよう、首元に抱き着いた。
僕が向かうのは地下の階段を下った先。
ただ、いつもと違ったのはその場所は人気のない小部屋ではなく、どうやらお酒を提供する場所を抜けた、通路の奥にある部屋のようだった。
相変わらず目隠しされた世界で、彼は遠慮がちに僕の腕を車椅子に固定する。
「もっと強くしていいよ。
その方が君も安心でしょ」
いつも僕の面倒を見る世話係は僕の事を腫れものように扱う癖に、こうして手足の拘束をするのは馬鹿力を発揮する奴が多かった。必要以上の強い力で、指先が痺れるくらい縛られるのは当たり前だったので、靴紐を結ぶように結ばれただけの拘束に僕はそう抗議する。
「…その方が良いのか?」
低い声と共に、左腕を縛るトッドの動きが止まる。
「ううん、痛いのは嫌だけど。
でも、僕がこの拘束を解いて目隠しを外したら君の命だって危ないだろ?」
僕は返す。
「お前は俺を殺すつもりなのか?」
「……そのつもりはないけど」
「だったら、これでいい」
終わったと告げるようにトッドは左腕を軽く叩く。
少しだけ遊びのある腕の拘束は久しぶりで、左右に少し動かせるだけの余裕があった。なんだか普通の人間のように扱われて少し嬉しい。
「あまりにも簡単に人を信用し過ぎじゃない?」
――中途半端な優しさは仕事の甘さにもなる。
自分の目の前だったり、アルフレッドからの話だったり。
それこそ、好きで読んだ本の世界だって。
優しさを覗かせて裏切られたって話は多い。全ての人類が善人とは限らないのだ。
「お前は俺を殺すつもりはない。
その言葉だけで充分だ」
手短に言って彼は立ち上がったようだった。
ガタガタを音がするので、何か道具を探しているか――持ち出しているようだ。
きっと、部屋も普段は使われていない場所なのだろう。
かび臭さは無かったものの、埃と酒の臭いが強かった。
トッドは部屋の掃除を始めたようだった。
音から察するに、昔ながらのブラシで床板を擦っているようだ。
ぼんやりと彼の働く音に耳を傾けながら時間が過ぎるのを待っていると、壁掛け時計が鐘を鳴らした。
使わない小部屋に時計があるなんて珍しい。
きっかり20回。――夜の8時だ。
移動した日に仕事はない。
だから僕は彼に声を掛けた。
「今日はそれくらいにして、晩ご飯にしよう。
初めての仕事だし、緊張して疲れただろう?」
どうせ毎日ここに閉じ込められるんだから、そんなに精を出して働かなくても大丈夫だよ。
そう言うとトッドの掃除の音が止まった。
「飯、貰ってくる」
食事はどこで調達するんだろう。
冷たいサンドイッチが多かったけれど、この場所なら温かい食事も少しは望めそうだ。
「うん」
僕の言葉を聞いて、トッドは部屋を出る。
地下の部屋に訪れた静寂に、僕はこれからの生活を思って少し深呼吸をした。
少しの間のあと、トッドが戻って来る。
彼が持ち帰ったのは、まだ温かいホットドックで。
僕らは「いただきます」も言わないでそれを食べて、初めての夜は終わった。
*
僕の仕事は散発的なものだったし、紹介された世話係・トッドと空いた時間をどう過ごそうかと考えあぐねていたのだけれど、それは杞憂に終わった。
トッドはとても無口で、与えられた仕事はきちんと務める人間だった。
「中肉中背の男。
人込みで派手に」
「金髪の背の高い女。
すぐに実行していい」
彼の指示は的確で、とても仕事がしやすかった。
最初に目の前で惨事を見た時だけは驚いて息を呑んでいたみたいだけど、昔の“彼”のように腰を抜かすこともなく、本当に、淡々と与えられた仕事をこなした。
きちんと前任者から申し送りをされていたのか、それとも単に彼の性格なのか。
床を磨くコツも掴んだのか、彼の後始末はいつも早かった。
世話係に余計な詮索をしないと決めた僕だったけれど、あまりに何も話さないトッドに痺れを切らしたのは僕の方で。
5日も過ぎた頃、やっと僕は彼に話しかけた。
――仕事を終えた、夜の事だ。
「…ねぇ、トッド。
寝てる?」
「寝てる」
「起きてるね。
…少しお喋りしない?」
「女子かよ」
トッドの返しは、いつも短い。
僕ってそんなにお喋りだったかな、彼と話すとそう思わされた。
「そんな事言わないで。
此処には僕と君しか居ないんだからさ」
「……」
「…今日、君は外に出た?」
「昼飯を貰いに」
「今日は晴れてた? それとも雨?」
「…さぁ。
そんな事知ってどうする」
「うーん…別に意味はないかな。
ただ君と少し話がしてみたいなって思って」
「…お前は人と話すのが嫌いだって聞いてたぞ」
――確かに、僕は今までの世話係とこんな話はしなかった。
やっぱり、彼は“誰か”から僕の世話について習ってきたらしい。
「…嫌いじゃないよ。
控えてただけ」
「…じゃぁこれからも控えてろ」
ぶっきらぼうにトッドは言って、寝返った音がする。
「努力する。
おやすみ」
トッドが話さないタイプじゃないことは分かった。
こうして話しかければきちんと返してくれる。
――とても、短い言葉だけれど。
真っ暗闇の中独りで過ごしていると、本当に毎日がつまらないし、1日が長いんだ。
短ければ2,3日。
長くても半月程度。
僕とトッドは“仕事場”で顔を合わせた。
あの夜から、トッドは僕に対する態度を少し変えたらしい。相変わらず口数は少なかったけれど、ちょっとした冗談を言えるようになった(とは言ってもやっぱり仕事の話とか重要なことは一切話さないけど。それでも話し相手が居るって素敵なことだ)。妙に子供の頃好きなお菓子の話が合うな、思ったら実は同い年で、それからは急に心の距離が近くなったのだ。
「今日の昼はツナとチーズのサンド、ベーコンとエッグのサンドだ。
どっちがいい?」
僕の前に2つの包みを置いてトッドは尋ねる。
「Rock-paper-scissors(じゃんけん)で決めよう」
僕は提案する。
目の見えない僕に不利な話かもしれないけど、トッドはそんな不正はしないって分かってるから、僕はよくRock-paper-scissorsをやりたがった。
「俺は不正するかもしれないぞ?」
必ずトッドは僕に言う。
「大丈夫、君はそんな事しないから」
せーの、掛け声と共に僕は縛られた右手でRock(グー)を作った。
「俺の勝ちだな」
「え~ほんと?」
笑った僕に「ほら」空いた左手にトッドは手を押し付ける。ゆっくりとその手の形を確かめて、僕は抗議した。
「Scissors(チョキ)じゃん! 僕の勝ちだよ」
「ははっ、バレたか。
ほら、好きなの選べよ」
トッドが笑って僕の腕の拘束を外す。
僕は固定された腕に血液が回るように擦りながら、トッドに告げた。
「ツナメルト、ちょうだい」
「お前、前にベーコン好きって言ってなかったか?」
「ベーコンエッグは好きだけど、トッドも好きでしょう?
勝った人に好きなのを渡さなきゃ」
笑った僕をトッドが小突く。
出来立てのツナとチーズのホットサンドを頬張りながら、僕は遠慮がちに尋ねた。
「ねぇ、トッド」
「ん?」
「あのさ…ジェイ、って呼んでもいい?」
「は? どうした急に」
「なんか…ファミリーネームって呼びづらくって」
だって、こうしてバカみたいな話ばっかりしてるじゃない?
続けると、
「いいぜ」
トッ…ジェイソンは了承した。
「じゃぁ、俺はリチャードって呼べばいいか?」
彼の言葉に僕は首を振る。
「ううん。ディックって呼んで欲しい」
「ディック?」
「僕の本当の両親はね、ディックって僕の事呼んでくれたんだ。
…内緒だよ?」
小声で告白した僕に「あぁ」ジェイソンは言って、それから僕たちはもっと心の距離を詰めたと思う。
僕らがマフィアの顔を作るのは仕事の時だけで、それ以外は同い年の友人になれた。
ウェインのファミリーに害をなす者、用が無くなった者――連れられた人間の理由は分からない。
僕はジェイソンに耳打ちされるまま、彼らの生命の灯し火の行方を操作した。
*
ジェイソンに出会って半年も経った頃、とうとう彼は僕の腕を拘束するのを止めた。
「…しないの?」
僕はジェイソンの声に向かって両腕を差し出す。
「お前、俺を殺して此処から出られんの?」
「ムリ」
「…だったら、俺とお前だけだし平気だろう。
友達を縛るのは気が引ける」
それがジェイソンの言い分だ。
――僕は、素直に彼が“友達”と言ってくれた事が嬉しかった。
「怖くない?」
遠慮がちに尋ねた僕に「今更お前を怖がるかよ」そうジェイソンは笑い声を漏らす。
僕の知らないところで人間が死ぬ様を彼は沢山知っているのだろう。目の前で繰り広げられる惨劇も、その後片付けも。
僕は引き起こす悲劇は彼にとって“気にならない”事らしい。
「死ぬのは怖いさ、誰だって」
ある夜の仕事前、早めにシャワーを浴びる僕を手伝いながらジェイソンは漏らす(1人で立つことが出来ないから、シャワールームに椅子が無いとダメなんだ…1人で浴びれるんだけど、それだけが難点)。
彼は同い年の僕に気を遣ってか、いつもドアに背を向けて座っていた。
「自分の死にざまくらい、自分で決めたい…って思う事はある。
けれど外の世界を歩くより、此処に居た方がずっと安全だ」
「…監禁されてるようなものだしね」
皮肉った僕に、珍しくジェイソンはぽつぽつと身の上を話した。。
ウェインファミリーと敵対するジョーカー一家に育てられたこと。
抗争に巻き込まれ、瀕死になったのをジョーカー一家は用済みだと投げ捨て、偶然にブルースに拾われたこと。
自分の存在は“死”んだものとされ、太陽の下は歩けないこと。
知り得る限りのジョーカーファミリーの情報を流すことで命の保障はされたこと。
だから僕と同じように基本的には屋敷に幽閉された生活なこと――
短い言葉ながらも伝えられた話に僕は言葉を失う。
「ジェイソン、それって――」
ずぶ濡れの身体のまま振り向いた僕に
「…死んだ者同士、仲良くしようぜ」
――暗闇の中だったけれど、彼が寂しそうに微笑んだ気がした。
多分、それからの僕らは“親友”になれたと思う。
ジェイソンが身の上を話してくれたように、僕もゆっくりと僕の歴史を話した。
サーカス生まれなこと、見世物小屋での一件、最後はブルースに買われたこと――
「死んだ者同士、お似合いだな」
なんて言って、まるで中学生みたいにハンドサインをしてバカみたいに笑った。
相変わらず屋敷と見知らぬ部屋の往復だったけれど、“友達”が居るって楽しい。
ただ仕事を待つぼんやりとした時間だってお喋りしてればあっという間だし、屋敷に帰っても“この家の何処かにジェイソンがいるかも”って思うと妙にワクワクした。
ある時は
「え、お前酒飲んだ事ないの!?」
ジェイソンに驚かれたことがある。
屋敷で出される食事は常にノンアルコールのものだったし、今までもあまりアルコールを見かけない生活だったから、すっかりその存在を忘れて過ごしていた。
勿論、ワインやブランデーと言ったアルコールは知っている。お酒って独特の臭気があるからね。
屋敷で時々食事をするブルースも飲んでいるが、僕に勧めることもなかったし、僕も興味を示さなかった。
「お酒って美味しいの?」
聞き返した僕に
「美味いか、と言われると…う~ん…」
彼は頭を捻っているようだ。
「よし、百聞は一見にしかずだ。
ちょっと待ってろ」
ジェイソンは言って、大きな音を立ててドアを閉める。
――今度困ったのは、僕だ。
僕とジェイソン、2人っきりの時はルールを破ってこうして腕の拘束は解かれている。――もし此処に誰か来たら…
急な不安に襲われて、僕はぴったりとひじ掛けに乗せた腕をテーブルの下に隠す。
少なくとも相手から見えなければ、ちょっとは時間を稼げそうだ。
ジェイソンと2人ならあっという間に過ぎる時間も、独りきりだと時間の歩みが随分と遅く感じる。
きっと、10分にも満たない短い時間だったとは思うけれど、永遠のように長く思えた――
その時、
「待たせたな!」
息を切らせたジェイソンが、出て行った時と同じく、大きな音を立ててドアを開ける。
「ジェイソン!
良かった…心配したんだから」
思わず涙ぐんだ声を出した僕に「悪い悪い!」ジェイソンは謝る。
それから、車椅子を引くと「ほら」冷たい何かを僕に握らせた。
指先に集中して、ゆっくりとその物体を撫でると何度か飲んだことのある、炭酸の缶に似ていた。
「ジュースの缶?」
首を傾げた僕に
「お前、今までの話はまるっと無視かよ。
ビールだ」
ジェイソンは誇らしげに答える。
「えぇっ!」
驚いて缶を落としそうになった僕に
「落とすなよ、振ったら大変な事になるんだぞ!」
ジェイソンは慌てる。
「…えっと、これ、今、飲む…?」
――まだ、仕事の前だ。
酔っぱらったことのない僕が、どんな風に人に呪を掛けられる? 失敗は許されない事情があるから、僕は直ぐに「いいね」とは言えなかった。
「…あー…仕事、あるよな。
終わったら、飲もう」
ジェイソンも察したようで、僕の手からビールの缶を取る。
「…折角走ってくれたのにごめんね」
「いいよ、別に」
僕の言葉にジェイソンは返して、ベッドの毛布へ隠して来る、そう続けた。
ジェイソンが肩を叩くのは、仕事の合図った。
彼は僕の両腕をしっかり固定して、そしてテーブルの前の定位置へ僕を運ぶ。
今日僕と顔を合わせる人間は、どんな人なんだろう。
「顔に酷い傷のある男。
直ぐにやって構わない」
外すぞ、目隠しを外されて僕はゆっくりと目を開ける。
目の前に現れた男性に「おやすみ」心の中で思って、僕は彼を強く見つめた――
*
今日の仕事を終えて、もう1度シャワーを浴びてさっぱりすると僕らはまた友達の顔になった。
「ロープなんて珍しいな」
「…だって、掃除が面倒でしょう?
もう、仕事の話はやめよ」
――いつも手っ取り早くナイフを使わせる僕が、今日は珍しくロープを選択肢に人を呪った。
だって、掃除をするとその分自由時間も短くなるからね。……少しくらい、自分の時間を楽しんだっていいでしょう?
「……だな。
野暮は話しちまった。謝る」
「それより、早く飲んでみたいな!」
そう、これから僕は初めてビールを飲むのだ。
楽しみで仕方なかった。
「持ってくる」
ジェイソンは言って、僕にビールの缶を握らせる。
「蓋は空けたから、零すなよ」
言われて、僕はそうっと缶に口付けた。
「…うわっ、なにこれ!?
めちゃくちゃ苦い!」
思わず顔を顰めた僕を、ジェイソンは笑う。
「ははは、まだお子ちゃまだなディックは」
プシュッと缶を開ける音がして、ごくごくと喉が鳴る音が耳に届く。
そのまま続けてパキッと缶を潰す音がしたから、ジェイソンはこのビールを一気に飲んでしまったようだった。
「ジェイソン、全部飲めるの…?
凄いなぁ」
ほんの10秒くらいの早業に、僕は素直に感嘆する。
またちびりと口を付けた僕だったけれど、やっぱりビールの味になれなくて眉をひそめた。
ジェイソンは笑うと、景気良く新しい缶を開けたようだった。
「それでも、ディックのは飲みやすいヤツにしたんだけどな?」
ジェイソンは続ける。
「えーっ!?
ビールって、そんなに種類があるの?」
驚いた僕にジェイソンはもっと笑った。
「飲んでみるか?」
持った缶を持ち上げられ、別の缶を渡される。
最初の一口でそんなに飲んだのだろうか、かなり軽くなったビール缶をそっと口に含むと、さっきよりもずっと苦味のあるフレーバーが口の中に広がった。
「…っえ、ムリだよぉ…」
首を振ってビール缶を差し出した僕をジェイソンはやっぱり笑って、そして僕のビールを持たせてくれる。――ほんの一瞬だったのに、随分とその缶も軽くなっていて、強いなぁ、僕は素直に思った。
「どうだ、初めてのビールの味は」
「えー…もういいかも…美味しくない…」
「そのうち美味くなるさ。
大人になれば、な」
普段は寡黙なジェイソンが珍しく饒舌なのは、ビールの力なのだろうか。
こんな苦いだけの美味しくない飲み物に、そんな力があるのかは僕には分からなかった。
「ディック、お前、顔真っ赤」
アルコールの缶を潰してジェイソンは言う。
まだ残っている僕のビールを抜き取ると、どうやらそれも一気に飲んでしまったようで、直ぐに缶を潰す音が響いた。
「えー、ほんと?」
僕は頬に手を遣る。
確かに、少し頭がふわふわする感じがするけど、悪い気分じゃない。けれど、言われた通り、頬は少し熱いような気がした。
「……鏡って見た記憶が無いからさ、実はよく分からないんだよね」
柔らかい頬を引っ張りながら僕は呟く。
「あー…」
ジェイソンは言うと、
「整った顔だと思う」
事も無げに続けた。
「ハンサム?」
尋ねた僕に「うーん」ジェイソンは言葉を濁す。
「美醜の基準は人の好みがあるからな。
カッコイイとかキレイとか、言いきれないと思うんだが」
「うん」
頷くと、ジェイソンはゆっくりと続けた。
「俺はお前の顔が綺麗だと思うよ」
低い彼の声のトーンは妙に甘い響きがあって、鼓動が早くなったのを感じた。
「…嬉しい」
精一杯の言葉を絞り出して、僕は顔を覆う。
――生まれてからずっと、容姿について何か言われた事はほとんど無かった。
だから、賛辞の言葉に舞い上がった。
僕の顔を見た人間は“必ず死ぬ”から。
「ジェイから僕ってそんな風に見えるんだね」
初めての賛美にくすぐったさを覚えて僕は1人顔を綻ばせる。きっと顔が緩んでしまったのも、お酒の所為なのだろう。
暫くそうして上機嫌に笑っていた僕だったけれど、今度は親友の容貌が気になって、好奇心に任せて尋ねてみた。
「ねぇ、ジェイはどんな顔?」
「どんな顔…って言われてもなぁ」
ジェイソンは言うと、うんうん唸る。
そして「そうだ」呟くと、僕の車椅子の位置を変えた。
目の前にあったテーブルが、今度は右手側になっていて横に向けられたようだ。
「ほら」
ジェイソンは言って、僕の手を取り、自分の頬へくっ付ける。
ごつごつした骨の感触は僕のと全然違っていて、それに僕はびっくりしてしまった。
「鼻はつまむなよ? 息が出来なくなる」
ジェイソンは続けて、動きを止める。
「…いいの?」
こわごわ尋ねた僕に、彼の返事は分かりやすかった。
「だって見えないなら、こうして触ってみるしか無いじゃねぇか」
ジェイソンの言葉に安堵して、僕はゆっくりと彼の顔に触れる。
つるりとした額、こめかみから伸びる髪は僕よりずっと硬くて短い。
顔の真ん中の鼻は高くて、目元の彫りは僕より深かった。
頬は硬くて夜だからか髭でざらざらする。
唇は柔らかくて、思ったより厚みがあった。
「男らしいねぇ」
感触から想像する彼の造形は、男らしい精悍な顔立ちだ。
思わず漏らした僕の声に、
「もう、良いだろ」
ジェイソンはぶっきらぼうに言うと僕の手を掴んだ。
「…あとちょっと」
抗議したけれど、「終いだ」にべもなく言われて、「寝るぞ」そう促される。
普段通りにベッドへ運ばれて「早く寝ろよ」声を掛けられて。
お酒が入ると眠くなるってジェイソンは教えてくれたけど、今の僕は全然眠くなんてならなかった。
暗がりの中、聴こえるのはジェイソンの高いびき。
なかなか睡魔の訪れない僕は、触り慣れた自分の顔を確認しながらジェイソンの顔の造形を想像した。
僕より凛々しい顔つきなのは分かった。どんな肌の色をしているんだろう。僕と同じくらい白い?それともこんがり焼けた色かな? どっちでもきっとよく似合う色だろう。ごつごつした手のひらから想像するに、体つきだってがっしりしている筈だ。
サーカスで一番の筋肉自慢の団員を思い出して僕は笑う。
彼の瞳の色はどんな色なんだろう。
明るい茶色? それとも真っ黒?
夜の帳のような青い色?
母さんが持ってたキラキラした宝石みたいな緑色かな?
――滅多に夢なんて見ない僕だったけど、その日の夢は想像したジェイソンとサーカスを見る内容だった。
*つづく*
――もう、世話係と世間話をする関係は築かないと誓ったのに。
大広間から、自室へ戻るとのソファに置いた大きなクッションに頭を挟んで僕は自問自答する。
どうして急に『世話係だ』なんて紹介した?
しかも、フルネームを名乗らせて。
僕の世界は義父のブルースと、アルフレッドの2人だけで充分なはずなのに。
柔らかに音の遮断された世界に響くのは、僕の心臓の音だけで。
その音も随分と早く聞こえたから神経が昂っているのを自分でも諒解した。
少し、落ち着いて水でも飲もう。
お昼はそのまま大広間でブルースとトッドの2人での食事だったけれど、正直な話、何を食べたのか覚えていない。
トッドもこの屋敷内で生活していること、これからは彼が僕の面倒を見ること――覚えているのはそれだけだった。
『アルフレッドとはもう会えない?』
尋ねた僕にアルフレッドは優しく答える。
『大丈夫ですよ、リチャード様。
屋敷でのお世話は今まで通り私が、出かけた際はトッドがお世話するだけです。
……今までと何も変わりはありません』
廊下を押されながら交わした話に安堵したのが、唯一覚えていることだ。
――また、長く屋敷を空けるのかなぁ。
読みかけの小説の続きが読めなくなるのが、少し寂しかった。
*
僕とトッドが“仕事”で顔を合わせたのは、出会いから半月もしない頃だった。
「…ごめんね、重くない?」
成人男性である僕を抱きかかえるトッドに申し訳なくなって僕は縮こまる。
もうすっかり足の筋肉は衰えてしまったけれど、上半身は車椅子を扱うから今までよりも筋肉質になっていたし、体重なんて気にしてはいなかったけど――やっぱり子供のように抱かれるのは恥ずかしかった。
密着した鼻に彼の体臭が届く。コロンの類は使わないのか、土臭い雄の匂いに屋敷で使う石鹸の匂いがした。
「…別に」
これも仕事の内だ、言わんとばかりにトッドの反応は薄い。
「ありがとう」
僕は呟くとそのまま彼が抱えやすいよう、首元に抱き着いた。
僕が向かうのは地下の階段を下った先。
ただ、いつもと違ったのはその場所は人気のない小部屋ではなく、どうやらお酒を提供する場所を抜けた、通路の奥にある部屋のようだった。
相変わらず目隠しされた世界で、彼は遠慮がちに僕の腕を車椅子に固定する。
「もっと強くしていいよ。
その方が君も安心でしょ」
いつも僕の面倒を見る世話係は僕の事を腫れものように扱う癖に、こうして手足の拘束をするのは馬鹿力を発揮する奴が多かった。必要以上の強い力で、指先が痺れるくらい縛られるのは当たり前だったので、靴紐を結ぶように結ばれただけの拘束に僕はそう抗議する。
「…その方が良いのか?」
低い声と共に、左腕を縛るトッドの動きが止まる。
「ううん、痛いのは嫌だけど。
でも、僕がこの拘束を解いて目隠しを外したら君の命だって危ないだろ?」
僕は返す。
「お前は俺を殺すつもりなのか?」
「……そのつもりはないけど」
「だったら、これでいい」
終わったと告げるようにトッドは左腕を軽く叩く。
少しだけ遊びのある腕の拘束は久しぶりで、左右に少し動かせるだけの余裕があった。なんだか普通の人間のように扱われて少し嬉しい。
「あまりにも簡単に人を信用し過ぎじゃない?」
――中途半端な優しさは仕事の甘さにもなる。
自分の目の前だったり、アルフレッドからの話だったり。
それこそ、好きで読んだ本の世界だって。
優しさを覗かせて裏切られたって話は多い。全ての人類が善人とは限らないのだ。
「お前は俺を殺すつもりはない。
その言葉だけで充分だ」
手短に言って彼は立ち上がったようだった。
ガタガタを音がするので、何か道具を探しているか――持ち出しているようだ。
きっと、部屋も普段は使われていない場所なのだろう。
かび臭さは無かったものの、埃と酒の臭いが強かった。
トッドは部屋の掃除を始めたようだった。
音から察するに、昔ながらのブラシで床板を擦っているようだ。
ぼんやりと彼の働く音に耳を傾けながら時間が過ぎるのを待っていると、壁掛け時計が鐘を鳴らした。
使わない小部屋に時計があるなんて珍しい。
きっかり20回。――夜の8時だ。
移動した日に仕事はない。
だから僕は彼に声を掛けた。
「今日はそれくらいにして、晩ご飯にしよう。
初めての仕事だし、緊張して疲れただろう?」
どうせ毎日ここに閉じ込められるんだから、そんなに精を出して働かなくても大丈夫だよ。
そう言うとトッドの掃除の音が止まった。
「飯、貰ってくる」
食事はどこで調達するんだろう。
冷たいサンドイッチが多かったけれど、この場所なら温かい食事も少しは望めそうだ。
「うん」
僕の言葉を聞いて、トッドは部屋を出る。
地下の部屋に訪れた静寂に、僕はこれからの生活を思って少し深呼吸をした。
少しの間のあと、トッドが戻って来る。
彼が持ち帰ったのは、まだ温かいホットドックで。
僕らは「いただきます」も言わないでそれを食べて、初めての夜は終わった。
*
僕の仕事は散発的なものだったし、紹介された世話係・トッドと空いた時間をどう過ごそうかと考えあぐねていたのだけれど、それは杞憂に終わった。
トッドはとても無口で、与えられた仕事はきちんと務める人間だった。
「中肉中背の男。
人込みで派手に」
「金髪の背の高い女。
すぐに実行していい」
彼の指示は的確で、とても仕事がしやすかった。
最初に目の前で惨事を見た時だけは驚いて息を呑んでいたみたいだけど、昔の“彼”のように腰を抜かすこともなく、本当に、淡々と与えられた仕事をこなした。
きちんと前任者から申し送りをされていたのか、それとも単に彼の性格なのか。
床を磨くコツも掴んだのか、彼の後始末はいつも早かった。
世話係に余計な詮索をしないと決めた僕だったけれど、あまりに何も話さないトッドに痺れを切らしたのは僕の方で。
5日も過ぎた頃、やっと僕は彼に話しかけた。
――仕事を終えた、夜の事だ。
「…ねぇ、トッド。
寝てる?」
「寝てる」
「起きてるね。
…少しお喋りしない?」
「女子かよ」
トッドの返しは、いつも短い。
僕ってそんなにお喋りだったかな、彼と話すとそう思わされた。
「そんな事言わないで。
此処には僕と君しか居ないんだからさ」
「……」
「…今日、君は外に出た?」
「昼飯を貰いに」
「今日は晴れてた? それとも雨?」
「…さぁ。
そんな事知ってどうする」
「うーん…別に意味はないかな。
ただ君と少し話がしてみたいなって思って」
「…お前は人と話すのが嫌いだって聞いてたぞ」
――確かに、僕は今までの世話係とこんな話はしなかった。
やっぱり、彼は“誰か”から僕の世話について習ってきたらしい。
「…嫌いじゃないよ。
控えてただけ」
「…じゃぁこれからも控えてろ」
ぶっきらぼうにトッドは言って、寝返った音がする。
「努力する。
おやすみ」
トッドが話さないタイプじゃないことは分かった。
こうして話しかければきちんと返してくれる。
――とても、短い言葉だけれど。
真っ暗闇の中独りで過ごしていると、本当に毎日がつまらないし、1日が長いんだ。
短ければ2,3日。
長くても半月程度。
僕とトッドは“仕事場”で顔を合わせた。
あの夜から、トッドは僕に対する態度を少し変えたらしい。相変わらず口数は少なかったけれど、ちょっとした冗談を言えるようになった(とは言ってもやっぱり仕事の話とか重要なことは一切話さないけど。それでも話し相手が居るって素敵なことだ)。妙に子供の頃好きなお菓子の話が合うな、思ったら実は同い年で、それからは急に心の距離が近くなったのだ。
「今日の昼はツナとチーズのサンド、ベーコンとエッグのサンドだ。
どっちがいい?」
僕の前に2つの包みを置いてトッドは尋ねる。
「Rock-paper-scissors(じゃんけん)で決めよう」
僕は提案する。
目の見えない僕に不利な話かもしれないけど、トッドはそんな不正はしないって分かってるから、僕はよくRock-paper-scissorsをやりたがった。
「俺は不正するかもしれないぞ?」
必ずトッドは僕に言う。
「大丈夫、君はそんな事しないから」
せーの、掛け声と共に僕は縛られた右手でRock(グー)を作った。
「俺の勝ちだな」
「え~ほんと?」
笑った僕に「ほら」空いた左手にトッドは手を押し付ける。ゆっくりとその手の形を確かめて、僕は抗議した。
「Scissors(チョキ)じゃん! 僕の勝ちだよ」
「ははっ、バレたか。
ほら、好きなの選べよ」
トッドが笑って僕の腕の拘束を外す。
僕は固定された腕に血液が回るように擦りながら、トッドに告げた。
「ツナメルト、ちょうだい」
「お前、前にベーコン好きって言ってなかったか?」
「ベーコンエッグは好きだけど、トッドも好きでしょう?
勝った人に好きなのを渡さなきゃ」
笑った僕をトッドが小突く。
出来立てのツナとチーズのホットサンドを頬張りながら、僕は遠慮がちに尋ねた。
「ねぇ、トッド」
「ん?」
「あのさ…ジェイ、って呼んでもいい?」
「は? どうした急に」
「なんか…ファミリーネームって呼びづらくって」
だって、こうしてバカみたいな話ばっかりしてるじゃない?
続けると、
「いいぜ」
トッ…ジェイソンは了承した。
「じゃぁ、俺はリチャードって呼べばいいか?」
彼の言葉に僕は首を振る。
「ううん。ディックって呼んで欲しい」
「ディック?」
「僕の本当の両親はね、ディックって僕の事呼んでくれたんだ。
…内緒だよ?」
小声で告白した僕に「あぁ」ジェイソンは言って、それから僕たちはもっと心の距離を詰めたと思う。
僕らがマフィアの顔を作るのは仕事の時だけで、それ以外は同い年の友人になれた。
ウェインのファミリーに害をなす者、用が無くなった者――連れられた人間の理由は分からない。
僕はジェイソンに耳打ちされるまま、彼らの生命の灯し火の行方を操作した。
*
ジェイソンに出会って半年も経った頃、とうとう彼は僕の腕を拘束するのを止めた。
「…しないの?」
僕はジェイソンの声に向かって両腕を差し出す。
「お前、俺を殺して此処から出られんの?」
「ムリ」
「…だったら、俺とお前だけだし平気だろう。
友達を縛るのは気が引ける」
それがジェイソンの言い分だ。
――僕は、素直に彼が“友達”と言ってくれた事が嬉しかった。
「怖くない?」
遠慮がちに尋ねた僕に「今更お前を怖がるかよ」そうジェイソンは笑い声を漏らす。
僕の知らないところで人間が死ぬ様を彼は沢山知っているのだろう。目の前で繰り広げられる惨劇も、その後片付けも。
僕は引き起こす悲劇は彼にとって“気にならない”事らしい。
「死ぬのは怖いさ、誰だって」
ある夜の仕事前、早めにシャワーを浴びる僕を手伝いながらジェイソンは漏らす(1人で立つことが出来ないから、シャワールームに椅子が無いとダメなんだ…1人で浴びれるんだけど、それだけが難点)。
彼は同い年の僕に気を遣ってか、いつもドアに背を向けて座っていた。
「自分の死にざまくらい、自分で決めたい…って思う事はある。
けれど外の世界を歩くより、此処に居た方がずっと安全だ」
「…監禁されてるようなものだしね」
皮肉った僕に、珍しくジェイソンはぽつぽつと身の上を話した。。
ウェインファミリーと敵対するジョーカー一家に育てられたこと。
抗争に巻き込まれ、瀕死になったのをジョーカー一家は用済みだと投げ捨て、偶然にブルースに拾われたこと。
自分の存在は“死”んだものとされ、太陽の下は歩けないこと。
知り得る限りのジョーカーファミリーの情報を流すことで命の保障はされたこと。
だから僕と同じように基本的には屋敷に幽閉された生活なこと――
短い言葉ながらも伝えられた話に僕は言葉を失う。
「ジェイソン、それって――」
ずぶ濡れの身体のまま振り向いた僕に
「…死んだ者同士、仲良くしようぜ」
――暗闇の中だったけれど、彼が寂しそうに微笑んだ気がした。
多分、それからの僕らは“親友”になれたと思う。
ジェイソンが身の上を話してくれたように、僕もゆっくりと僕の歴史を話した。
サーカス生まれなこと、見世物小屋での一件、最後はブルースに買われたこと――
「死んだ者同士、お似合いだな」
なんて言って、まるで中学生みたいにハンドサインをしてバカみたいに笑った。
相変わらず屋敷と見知らぬ部屋の往復だったけれど、“友達”が居るって楽しい。
ただ仕事を待つぼんやりとした時間だってお喋りしてればあっという間だし、屋敷に帰っても“この家の何処かにジェイソンがいるかも”って思うと妙にワクワクした。
ある時は
「え、お前酒飲んだ事ないの!?」
ジェイソンに驚かれたことがある。
屋敷で出される食事は常にノンアルコールのものだったし、今までもあまりアルコールを見かけない生活だったから、すっかりその存在を忘れて過ごしていた。
勿論、ワインやブランデーと言ったアルコールは知っている。お酒って独特の臭気があるからね。
屋敷で時々食事をするブルースも飲んでいるが、僕に勧めることもなかったし、僕も興味を示さなかった。
「お酒って美味しいの?」
聞き返した僕に
「美味いか、と言われると…う~ん…」
彼は頭を捻っているようだ。
「よし、百聞は一見にしかずだ。
ちょっと待ってろ」
ジェイソンは言って、大きな音を立ててドアを閉める。
――今度困ったのは、僕だ。
僕とジェイソン、2人っきりの時はルールを破ってこうして腕の拘束は解かれている。――もし此処に誰か来たら…
急な不安に襲われて、僕はぴったりとひじ掛けに乗せた腕をテーブルの下に隠す。
少なくとも相手から見えなければ、ちょっとは時間を稼げそうだ。
ジェイソンと2人ならあっという間に過ぎる時間も、独りきりだと時間の歩みが随分と遅く感じる。
きっと、10分にも満たない短い時間だったとは思うけれど、永遠のように長く思えた――
その時、
「待たせたな!」
息を切らせたジェイソンが、出て行った時と同じく、大きな音を立ててドアを開ける。
「ジェイソン!
良かった…心配したんだから」
思わず涙ぐんだ声を出した僕に「悪い悪い!」ジェイソンは謝る。
それから、車椅子を引くと「ほら」冷たい何かを僕に握らせた。
指先に集中して、ゆっくりとその物体を撫でると何度か飲んだことのある、炭酸の缶に似ていた。
「ジュースの缶?」
首を傾げた僕に
「お前、今までの話はまるっと無視かよ。
ビールだ」
ジェイソンは誇らしげに答える。
「えぇっ!」
驚いて缶を落としそうになった僕に
「落とすなよ、振ったら大変な事になるんだぞ!」
ジェイソンは慌てる。
「…えっと、これ、今、飲む…?」
――まだ、仕事の前だ。
酔っぱらったことのない僕が、どんな風に人に呪を掛けられる? 失敗は許されない事情があるから、僕は直ぐに「いいね」とは言えなかった。
「…あー…仕事、あるよな。
終わったら、飲もう」
ジェイソンも察したようで、僕の手からビールの缶を取る。
「…折角走ってくれたのにごめんね」
「いいよ、別に」
僕の言葉にジェイソンは返して、ベッドの毛布へ隠して来る、そう続けた。
ジェイソンが肩を叩くのは、仕事の合図った。
彼は僕の両腕をしっかり固定して、そしてテーブルの前の定位置へ僕を運ぶ。
今日僕と顔を合わせる人間は、どんな人なんだろう。
「顔に酷い傷のある男。
直ぐにやって構わない」
外すぞ、目隠しを外されて僕はゆっくりと目を開ける。
目の前に現れた男性に「おやすみ」心の中で思って、僕は彼を強く見つめた――
*
今日の仕事を終えて、もう1度シャワーを浴びてさっぱりすると僕らはまた友達の顔になった。
「ロープなんて珍しいな」
「…だって、掃除が面倒でしょう?
もう、仕事の話はやめよ」
――いつも手っ取り早くナイフを使わせる僕が、今日は珍しくロープを選択肢に人を呪った。
だって、掃除をするとその分自由時間も短くなるからね。……少しくらい、自分の時間を楽しんだっていいでしょう?
「……だな。
野暮は話しちまった。謝る」
「それより、早く飲んでみたいな!」
そう、これから僕は初めてビールを飲むのだ。
楽しみで仕方なかった。
「持ってくる」
ジェイソンは言って、僕にビールの缶を握らせる。
「蓋は空けたから、零すなよ」
言われて、僕はそうっと缶に口付けた。
「…うわっ、なにこれ!?
めちゃくちゃ苦い!」
思わず顔を顰めた僕を、ジェイソンは笑う。
「ははは、まだお子ちゃまだなディックは」
プシュッと缶を開ける音がして、ごくごくと喉が鳴る音が耳に届く。
そのまま続けてパキッと缶を潰す音がしたから、ジェイソンはこのビールを一気に飲んでしまったようだった。
「ジェイソン、全部飲めるの…?
凄いなぁ」
ほんの10秒くらいの早業に、僕は素直に感嘆する。
またちびりと口を付けた僕だったけれど、やっぱりビールの味になれなくて眉をひそめた。
ジェイソンは笑うと、景気良く新しい缶を開けたようだった。
「それでも、ディックのは飲みやすいヤツにしたんだけどな?」
ジェイソンは続ける。
「えーっ!?
ビールって、そんなに種類があるの?」
驚いた僕にジェイソンはもっと笑った。
「飲んでみるか?」
持った缶を持ち上げられ、別の缶を渡される。
最初の一口でそんなに飲んだのだろうか、かなり軽くなったビール缶をそっと口に含むと、さっきよりもずっと苦味のあるフレーバーが口の中に広がった。
「…っえ、ムリだよぉ…」
首を振ってビール缶を差し出した僕をジェイソンはやっぱり笑って、そして僕のビールを持たせてくれる。――ほんの一瞬だったのに、随分とその缶も軽くなっていて、強いなぁ、僕は素直に思った。
「どうだ、初めてのビールの味は」
「えー…もういいかも…美味しくない…」
「そのうち美味くなるさ。
大人になれば、な」
普段は寡黙なジェイソンが珍しく饒舌なのは、ビールの力なのだろうか。
こんな苦いだけの美味しくない飲み物に、そんな力があるのかは僕には分からなかった。
「ディック、お前、顔真っ赤」
アルコールの缶を潰してジェイソンは言う。
まだ残っている僕のビールを抜き取ると、どうやらそれも一気に飲んでしまったようで、直ぐに缶を潰す音が響いた。
「えー、ほんと?」
僕は頬に手を遣る。
確かに、少し頭がふわふわする感じがするけど、悪い気分じゃない。けれど、言われた通り、頬は少し熱いような気がした。
「……鏡って見た記憶が無いからさ、実はよく分からないんだよね」
柔らかい頬を引っ張りながら僕は呟く。
「あー…」
ジェイソンは言うと、
「整った顔だと思う」
事も無げに続けた。
「ハンサム?」
尋ねた僕に「うーん」ジェイソンは言葉を濁す。
「美醜の基準は人の好みがあるからな。
カッコイイとかキレイとか、言いきれないと思うんだが」
「うん」
頷くと、ジェイソンはゆっくりと続けた。
「俺はお前の顔が綺麗だと思うよ」
低い彼の声のトーンは妙に甘い響きがあって、鼓動が早くなったのを感じた。
「…嬉しい」
精一杯の言葉を絞り出して、僕は顔を覆う。
――生まれてからずっと、容姿について何か言われた事はほとんど無かった。
だから、賛辞の言葉に舞い上がった。
僕の顔を見た人間は“必ず死ぬ”から。
「ジェイから僕ってそんな風に見えるんだね」
初めての賛美にくすぐったさを覚えて僕は1人顔を綻ばせる。きっと顔が緩んでしまったのも、お酒の所為なのだろう。
暫くそうして上機嫌に笑っていた僕だったけれど、今度は親友の容貌が気になって、好奇心に任せて尋ねてみた。
「ねぇ、ジェイはどんな顔?」
「どんな顔…って言われてもなぁ」
ジェイソンは言うと、うんうん唸る。
そして「そうだ」呟くと、僕の車椅子の位置を変えた。
目の前にあったテーブルが、今度は右手側になっていて横に向けられたようだ。
「ほら」
ジェイソンは言って、僕の手を取り、自分の頬へくっ付ける。
ごつごつした骨の感触は僕のと全然違っていて、それに僕はびっくりしてしまった。
「鼻はつまむなよ? 息が出来なくなる」
ジェイソンは続けて、動きを止める。
「…いいの?」
こわごわ尋ねた僕に、彼の返事は分かりやすかった。
「だって見えないなら、こうして触ってみるしか無いじゃねぇか」
ジェイソンの言葉に安堵して、僕はゆっくりと彼の顔に触れる。
つるりとした額、こめかみから伸びる髪は僕よりずっと硬くて短い。
顔の真ん中の鼻は高くて、目元の彫りは僕より深かった。
頬は硬くて夜だからか髭でざらざらする。
唇は柔らかくて、思ったより厚みがあった。
「男らしいねぇ」
感触から想像する彼の造形は、男らしい精悍な顔立ちだ。
思わず漏らした僕の声に、
「もう、良いだろ」
ジェイソンはぶっきらぼうに言うと僕の手を掴んだ。
「…あとちょっと」
抗議したけれど、「終いだ」にべもなく言われて、「寝るぞ」そう促される。
普段通りにベッドへ運ばれて「早く寝ろよ」声を掛けられて。
お酒が入ると眠くなるってジェイソンは教えてくれたけど、今の僕は全然眠くなんてならなかった。
暗がりの中、聴こえるのはジェイソンの高いびき。
なかなか睡魔の訪れない僕は、触り慣れた自分の顔を確認しながらジェイソンの顔の造形を想像した。
僕より凛々しい顔つきなのは分かった。どんな肌の色をしているんだろう。僕と同じくらい白い?それともこんがり焼けた色かな? どっちでもきっとよく似合う色だろう。ごつごつした手のひらから想像するに、体つきだってがっしりしている筈だ。
サーカスで一番の筋肉自慢の団員を思い出して僕は笑う。
彼の瞳の色はどんな色なんだろう。
明るい茶色? それとも真っ黒?
夜の帳のような青い色?
母さんが持ってたキラキラした宝石みたいな緑色かな?
――滅多に夢なんて見ない僕だったけど、その日の夢は想像したジェイソンとサーカスを見る内容だった。
*つづく*
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